諸々,徒然… その七 パロディ・In・うる星やつら(3) 
 
さてさて,うる星における他作品のパロディについて,私個人の好みや感想を記して参りましたこのシリーズ,いよいよ今回の“感心できない編”をもって一応の区切りとさせていただきます。いかんせん,批判的内容なだけに今回はいつもより辛口な論調となります(ラムの料理ほどヒリヒリしませんが…)。そのあたり,ご了承ください。

さぁ,私の眼から見た「パロディとしての良質度」が劣る作品とは一体?!…痛ッ(>皿<)!だれじゃい?今,後頭部をスリッパでブッ叩いたのはっ!何?ただでさえ文章が長くなるんだから,勿体つけずにさっさと進めろ?……はぃ(T_T)


納得できない作品,ズバリそれは「大魔神現る!ラムの危険なお買い物?!」です。
飛鳥の”ナウシカ”(あぁ〜っ,言っちゃったよ…。これ,あくまでも私見でしかありませんから >_<)

そう,かの「ナウシカ」のシーンを随所に織り込んで,綱紀粛正の嵐吹きすさぶ友引高校における生徒側と学校側の一大闘争を「炎の八日間」として描いた,「あの」トンでもない作品です(あくまで私にとって)。かつて買い食い取りを巡った生徒たちと学校側との攻防を描いた「買い食いするものよっといで!を上回るスケール,それが欲しかったという意図は判るのですが…。何が,そんなに気に入らないの?と訝しがる方もおいでるでしょう。るーみっく以外に好きな宮崎作品がパロられたからかと思われるかもしれませんが,そ〜んな狭い了見ではありませんよ,念のため。

そうですねぇ,一言で申せば「キャラがパロディに踊らされてしまっている」からということになるでしょうか…。つまり,パロディの方が優先されてストーリーが組み立てられ,キャラはそれに合わせた動きをさせられていると感じるのです。

一番判りやすいのが校長でしょう。
お人好しという言葉がぴったりハマるこの方,確かに,校内美人コンテストを開いたり,弁天と竜之介の女らしさテストに協力とかこつけて(苦笑)心理劇のシナリオまで考えたり,授業そっちのけで次々といろんな行事を催すことは否めませんし,生徒の学力向上を目指すよりも一日中舞い散るサクラ花を愛でたり,竹久夢二の美人画を好んだりコタツネコと一緒に茶を啜ったりと「団子より花」,実より風流を好むような変わった(うる星にはピッタリの)人ではあります。蛇足ながら,私の高校の校長(当時)に顔立ちやら体格,雰囲気やら頭部の淋しい&眩しい感じに至るまで,そっくりの人でもあります)…。あ,私の高校の校長は「重い肩書きとともに立場も立派」でしたが(^^;)
話を戻しますと,これら校長のキャラ,今回のエピソード中いくら好きな茶をことごとくダメにされたとは言え,ヒトラー(ズバリの服装!)さながらに独裁的な生徒弾圧をさせたことによって,完全に手のひらを返したようになっています。ジキルとハイドじゃないっちゅ〜の!それは,原作のみならずアニメによっても積み上げてきた彼のキャラを,足下からひっくり返した(=制作者自らが過去を否定した)ような印象さえ受けてしまうのです。

余談ですが,このアニメの放送後,約半年間の間に2回,「騒ぎの渦中にあっても」校長はお人好しであることを強調するような原作エピソードを高橋先生は描かれています(「情熱の赤い靴」と「校長殴打事件」)。これは何を意味するのでしょう?憶測でしかありませんが,このアニメにおける校長の描かれ方をかなり不本意に思われたのではないでしょうか…。

そして,そんな校長に全面協力の姿勢をとった面堂とサングラス部隊。あたるをはじめとしてバイタリティが服を着ているような友引男子生徒だけを相手にしているならいざ知らず,女子生徒まで巻き込んでの秘密警察的振る舞い(実際そんなシーンが描かれている!)は,まるでナチにおけるゲシュタポ…。『面堂ってもの凄―くイヤなヤツという印象しか湧かんじゃないですか!

生徒側に目を転じて,メガネ。先頭に立って戦闘,あいや闘争する様は彼らしい美学を見せているように一見感じます。が,とどのつまり自分の意志よりは「友引闘争史に踊らされている」んですね。彼も…。最後,王蟲の輝く触手によってさし上げられるナウシカよろしく,故障した戦車のコンピュータ用磁気テープ(メモリやディスクでないところが時代を感じます ^^;)に絡まれて,夕陽と倒壊した校舎をバックに夕焼け空に登っていく様子は,滑稽を通り越して哀れにさえ感じます(T_T)。

あたるはあたるで,戦車の砲身につかまって「了子ちゃ〜ん♪」と意味なく叫んじゃってるし…いくらメガネにスポット当ててるとは言え,主人公なんだからもう少し意志を感じさせるように動かせて欲しかった。冒頭とラストでのあたるのモノローグを,古川さんがシブめに決めていらっしゃるだけに,肝心なところでのあたるの動きが喰い足りません

ラムや,ラムが通販で買った大魔神に似た演説ロボットによる大ボケも,所持品検査を巡っての面堂としのぶ,あたるたちとのやり取りも,つまりは原作部分の全てがナウシカのパロディ仕立てにストーリーを展開するための構成要素でしかない…。主役はパロディ,キャラも原作も脇役!これじゃ本末転倒もいいところ!!そんな印象ばかりが残ります。

結局,「買い食いするもの〜」で感じた,生徒に対しては勿論学校側にも覚えた「呆れるほどの爽快なエネルギー」や,この後もバカな騒ぎを見せて楽しませてくれるだろうなといった一種の期待感を抱くこともなく,物語の幕引きを見届けることになるのです。


プロデューサーの落合茂一氏と同じ考えながら,これも個人見解ですが,うる星はキャラが先に立ってストーリーはキャラが引き起こして展開する「ドラマ」だと思います。ですから,ストーリー重視&先行でキャラが「話を演じる」のはどうも…。ましてや,そのストーリーがパロディに寄りかかってしまっているのは何たることぞ(\皿/)!よくよく考えてみたら,BD(劇場版うる星2)もストーリー先行型なんですけど,そのあたりは改めて別の機会に論じることにしましょう…。

こういった展開,同人まんがやファン&マニア向けのOVAなら,まだいいんです。十分に許容範囲でしょう。読んだり見たりする方が,キャラ設定や作品の世界観を一通り理解している上で,オリジナルとは異なった世界を楽しんでいるというのが前提になりますから。

しかし,今回取り上げたようにプロのアニメ現場自体が一般放送用で「やってもうた」ことは問題だと思います。特定のファンでない人も視聴することもあるわけです。
原作を尊重したアニメ制作を行う方針ならば,原作を膨らませるのは大いに結構なんですが,少なくとも,キャラ設定を完全に歪曲して受け取られるような恐れのある作品を生み出すものではないし,そうならないように心がけることはプロとして当然の姿勢・責任ではないでしょうか?
いくら前年に大受けした劇場アニメのパロディとはいえ,そこに頼ってしまい,本来のエネルギーやキャラを「殺して」しまうような作品は,パロディの側面のみならず全体の仕上がりの面からも「不出来」の部類に入ってしまうと思うのです。

この作品,作監は河南正昭さん,原画に冨田悦子さんや中島敦子さんと素晴らしいスタッフで制作されてますし,キーポイントになる脚本もT.Tさんという一流の方が手がけられていただけに,尚のこと残念に思うのです。
所持品検査自体のやり取りをもっと明るく,コミカルかつダイナミックに描くことができていたら「買い物するもの〜」に負けず劣らず,素晴らしい作品になっていたのではないかと…。


「ローマは一日にして成らず」,そして「ロマンは一作にして成らず」

 

≪ もどる