諸々,徒然… その壱拾 I Wanna Hold Your Hand! 
 
“Tacked Corner”にBeatlesをパロったイラをアップしたからではありません。今回は「手」をキーワードにして,またまた独り善がりな文章をズラズラと書き並べたいと思い,辿り着いたのが本編10回目にあたる今回のタイトルというわけです。

あ,今回の駄文,本格的に到来した夏の暑さに脳味噌が冒された状態(苦笑)で書きますので,いつもよりスケベ度高いです。常なら2回に分けるところ,一気に行っちゃいますよ!(おぉっ)
特に年齢制限は設けませんが,「ソノ手」の話や当方“小豆庵”の内容などが苦手という方は,今のうちにお戻りいただいた方が精神衛生上よろしいかと(^^;)
逆に,「そちらの話」が大好きという方(失礼…)あるいは主人公たちのラブな話には目がないのだと言われる方には食い足りないであろうことも(コラ!),前もってお断りしておきます…。


では,準備運動的な内容(え〜っと…,これに深い意味はありませんよ)から。

絵掲に描かせていただいた拙連作をご覧いただいた方は気付かれているかもしれませんが,当管理人,指先や手の動きにもそれなりに拘るタイプです。決して後ろ姿肉球のある生き物,グラマラスなバストやヒップ,ム○ム○した太腿だけが好きなのではありません。無論,それらが大好きなこと,そして好きだったり拘ったりすることと納得いけるように描けることが結び付いていないことも,お伝えしておきましょう(^^;)うっ,また悪い癖が出て文が長くなってる…。

先に進みましょう。指や手の動きや所作に魅せられたのは,やはりラムがきっかけです。それも,アニメの二つの場面から“ノックアウト”されました。この件,よくお邪魔させていただくうる星サイトさんの掲示板に,以前カキコさせていただいたんですが,改めて今回記しておきましょう。

一つは「パニック・イン・台風」の中で,水中に沈んだ携帯用Gコンを探す途中,倒れてきた家具類の下敷きになったラムをあたるが救い出そうとします。なかなかはかどらない“救出作業”の途中,あたるの身を案じてラムは『うちはいいから,もう行って…』と言うように伸ばした手であたるを押します…。
この時の手や指の“表情”が抜群で,私のツボにハマりまくりっ o(≧▽≦)o
絶体絶命の極限状態にもかかわらず,あたるに対するラムの想いがまさに指先に至るまで出ていて,その造作や仕草から来る色っぽさとともに“おぉっ!指の動きでこんなにも気持ちが表せるのかっ!”と感じ入ることしきりでした。

もう一つは,劇場版1st「オンリー・ユー」で「ラムのバラード」に合わせ,ラムの心情を表したイメージ・シーン…。
もうお判りでしょう?心の中のあたる=幻に伸ばした手の宙空をまさぐる動き,微妙な溜を伴ったその仕種は,痛いほどに切ないラムの心を,そして艶っぽさとは別のところから滲み出てくる色気というものを,発展途上だった私のアニメを見る眼に十二分に見せてくれたのでしたっ(力説!)


さてさて,メイン・ステージは誰かさんの色っぽい手のことではなく,るーみっく4大作品の主人公とヒロインの間で交わされた「互いの手を取り合う,握り合う」行為に焦点を当ててみます。

思わず「は?」となってしまった人っ,手を握るという行為を軽く見てはいけませんぞ!無論,手を握っただけで妊娠なんて非科学的でおバカなことは,毛頭口にする気もありません(←言わなくても書いてるじゃん…)
しかし,かの作品たちの主人公カップルが手を繋ぐシーン,非常に重要なポジションにあると私は考えるのです。
思い出してみてください,それぞれの作品で,主人公カップルが初めて手を握り合ったシーンを。ここでは原作から拾い出してみましょう。まずは,Wサンデー連載の3作。

  • あたるとラム:「君待てども」…“組野音子”に変装したラムによって,コースケたち2年4組の男たちの策略から逃れることのできたあたる。借りを作ってしまったと振り向いた時,ラムの可愛さに思わず見とれる。家路の途中,先に帰ろうとするラムの手を握って引き止める。そのまま手を繋いで「もうちょっと一緒に歩こうよ」「うん…」
  • 乱馬とあかね:「真之介編」…流幻沢の騒ぎを鎮め,帰路に就く二人。途中,乱馬,優しく声をかけながら手を握ろうと考えるも,何も言えないまま,おずおずと手を伸ばす。その仕種に,あかねは微笑みながら,そっと手を握り返す。夕焼け空より真っ赤になった(と思われる)顔の乱馬と上機嫌のあかね,前後に手を繋いで秋の訪れを感じさせるあぜ道を進む…。 
  • 犬夜叉とかごめ:「かごめの心」…桔梗と運命を共にする決心をした犬夜叉,現代に帰ったかごめに別れを告げようと骨喰いの井戸に行くと,そこにはかごめの姿が。互いに相手への想いを告げる二人。犬夜叉の心にある桔梗への想いも受け止めた上で,かごめは尋ねた。「一緒にいていい?」二人が出逢ったことは偶然じゃない,犬夜叉には生きていて欲しい。かごめ,犬夜叉の手を取り,二人は手を繋いで仲間のもとへと歩き始める…。
↓歳末(とき)は鐘鳴り(かねなり)での手を繋ぐシーン
最後のセリフがなけりゃキマるんだけど…(^^;)いかがですか?それぞれの物語において,二人の関係がそれまでより一歩も二歩も前に進んだエピソードの中で,さり気ないようでいて(乱馬の場合,さり気なくないが ^^;)実に印象深く“手を繋ぐ“ことをしているんですね〜。
これが何を意味しているかは,もう明白でしょう。
手を繋ぐということは,互いの体温とともに心の機微も伝え合います。極論を言うなら,愛し合う男と女が手を繋ぎ合うことは,互いが相手に身も心も委ねることに結び付くわけです(少なくとも,その最初の一歩)。
 

「んじゃ,そのものズバリで表現すれば?」とおっしゃる方,ごもっとも(←もしもし… ^_^;)
私も,そう思ってました。その手の絵も嫌いじゃないし(とゆ〜より,大好きだろーが!)
しかし,実際のところ先の3作品の原作は,”その手のニオイ“をさせるシーンはあっても(うる星やらんまなどは結構…),ズバリの表現は皆無でしたよね(犬夜叉,この先どーなるか判りませんが ^^;)。少年誌上とはいえ,これは非常に希有なことでしょう。そして,ナニだけではなくキス・シーンさえもほぼ皆無(乱馬とあかねは”未遂“に終わった…)こうなると,「少年誌だから」では収まりません。そこには高橋先生のポリシーすら感じられるのです!(← 勝手な思い込みですが…)

まだ,話に出していなかった「めぞん一刻」(ようやくの登場ですっ!)この中に謎を解く鍵が隠れていると思うのです。一般青年誌に連載されたので先のサンデー3作とは異なり,「契り」で五代君と響子さんが結ばれるシーンが“ズバリ”(笑)と出ています。が,ここばかりでなく見落としてはいけないのが,この回も含め計3回数えられる二人が手を繋ぐ場面です。

  • 1回目「しわのあるキューピッド」…五代君のおばあちゃんにお膳立てしてもらったデートに出かけた二人,他の一刻館住人の“尾行”をまくために揃って彼らから逃げ出す。途中,二人の手は自然との握り合って…
  • 2回目「契り」…幾多の困難や誤解を乗り越え,お互いが相手にとってかけがえのない存在であることを解り合った二人は,身も心も熱く重ね合い…
  • 3回目「桜の下で」…剰りにも有名な「あなたもひっくるめて響子さんをもらいます。」と,五代君がお墓の中の惣一郎さんに語った場面。その後で,響子さん,遺品を返すことを惣一郎さんに告げたあと,「あなたに会えて本当に良かった」と墓前で五代君と手を繋ぐ…。
“二人で人生を歩んでいく”ことに向かって,それぞれの“手を繋ぐ”ことの意味が段々と大きくなっていることに気付かれると思います。
「契り」の中での描かれ方も印象深く,結ばれる場面に挿入された形で表されています。体を重ねるだけでなく,しっかりと心も結び合うことを象徴するように。

では,高橋先生が二人の間にある“愛”の表現で“手を繋ぐ”ことを重んじている(というように受け取れる)のは,どうしてでしょうか?

心が先か体からかという順序には正論はないでしょうが,ともかく,心の方がなかったら”愛情”ではないでしょうね。単に,本能的な欲情に終わってしまうでしょう。
「男は愛情がなくても女を抱けるか?」という命題,比較的よく目にします。
これも私見ですが,男たる私は「YES」と答えます。そりゃ,誰でもいいと意味じゃないですよ(^^;)
相手に対して肉体的な“魅力”を強く覚えて,先のことを思い切るというか理性のブレーカーを外すというか“そのあたりをうっちゃれ“ば,コトに至るのは可能です(成功するか否かは別として)。
でも,それって単に動物的なつながり(動物に対して失礼?)にしか過ぎませんよね。やはり,心のつながりと深まりがないと,満足のいく(苦笑;”充実した“の意)男女関係とは言えんでしょう。

まんがに描かれるキスを取り上げても,女性読者が多い少女誌ならコトの経緯に関する心の表現が男女とも(女の子の比重が大きいにせよ)に行われてますが,少年誌の場合,男側の独り善がりで描かれることが多いですよね,何分,動物的というか…。まぁ,それが一般的な年頃の男の子の反応です。哀しいかな,本能が先に立ち,相手の女の子を思いやることが,どーしても後に来るんですな。それなりに経験(程度や回数に個人差あり)を積まんことには…(T_T)

だから(ここ,少し保護者モード入ってます),これから深い関係を経験される方,あるいはその最中にある方,気をつけてくださいね(共に女性対象 ←コラ!)。始めから終わりまでに,手を繋いだり髪をなでたり肩を抱いたりというようなことが一切なければ,相手は人としてのあなたが欲しいのではなく,あなたの体が目当てです!(ぉぃ)例えムードたっぷりにコトが成就したとしても,騙されちゃいけません。あ,やってから気付いても遅いか…(大汗)
閑話休題。

話を戻すと,高橋先生の描かれるメイン・カップル“一皮剥ける間柄”に至るまではすれ違いや反発を繰り返してますよね,程度は違っていても。お互いの肉体的魅力を感じてはいても,そちらから接近し親密になっていく展開とは明らかに異なります。ブレイクスルーは,互いが相手に寄せる優しさや思いやり,すなわち“心の動き”に重きが置かれた状態で起きています

今までのことから,高橋先生が考えられている主人公とヒロインの愛の姿に行き着くことができるような気がします。
心から,もしくは身も心も共に育てる」愛なんでしょうね。
めぞんでは,「契り」以前に2回のキス・シーンがありましたが,その後に愛を深めるという展開にはなっていませんでした。少年誌の3作でキス・シーンがなかった(未遂した,まだない)のも,“愛を育て始めた段階で未だ次のステップには至っていない”二人だからでしょう。
そして,高橋先生の”心の方から(または心身共に)育てる愛”の一つの表し方が“手を繋ぐ”ことだと,私は思うわけなのです。


さて,こんなことを考えた上,この場に書こうと思い立ったのには,3つほどの遠因があります。

1つは,先の“ラムの手に表されたラムの心”に打ちのめされたこと(^_^;)

2つめは,この春,職場の歓送会(二次会)の席で見たカラオケのビデオ。歌の方は上の空だったんですが(苦笑),昔の場所らしき所を舞台に,一人の客(ナイス・ミドルでしたね♪)と彼に身請けされることを心待ちにしている娘との情交を描いていたんですが,そこで印象に残ったのが,二人が堅くそして熱く手を繋ぐ場面のアップが目立ったこと。ズバリを見せられるよりも二人の情念が伝わってきて,思わず見とれてしまいました。そして,いつかどこかでこの表現を使ってみたいと思ったのです。

トドメは何と言っても,最近とある素敵うる星サイトさんで拝見したあたるとラムがですね,とても「きゃ〜〜っっ♪」だったんですよーっo(*≧▽≦*)o(男がこんな風に書くと気色悪いですが… -_-;)一瞬,浮世絵の世界がうる星で展開されたかっと思いましたね。そして,次に頭に浮かんだのは先のカラオケV!でもね,色っぽく艶っぽいんですがおかしなイヤラシさがないんです,すごく素敵で…(← 妙なヨイショじゃないですよ ^^;)。

そう感じるのはどこから来ているのかなーと,自分に納得がいくように分析したところ,その作者さんが描こうとしたのは(そして,描かれたのは),行為それ自体ではなく,その向こう側にいるあたるやラム二人の方だからじゃないか?二人の“体”ではなく“心”に視点を当てられていて,それがズンと伝わってくるからじゃないか?という考えに行き着いたのです。
逆に,どんなに可愛く描けていても,どことなくイヤらしい,猥雑なところを感じる絵もありますよね(うる星やるーみっくに限らず,一般論として)。その場合は,キャラの“心”や“人間性”じゃなく“肉体的魅力”を先に(あるいは,それのみ)追って描いているからじゃないでしょうか?


甚だ意味や意図の判りにくい文章になってしまいましたが,キャラの外見のみにとらわれず,内から滲み出てくるような素敵さ=そこに感じる色気(ナニに限らず,日常的な仕種からくるものも含めて),そんな雰囲気というか空気感のようなものが少しでも醸し出せたら,日曜まんが家としては一つ及第点がつくかな,そんなふうに描きたいなと,この数週間考えておりました。そして,先の素敵サイトさんのイラから一層強く思ったのです。自分なりのその道の一つ“手”に拘るというのもあるのでは,とも…。

しっかし,コレ,めちゃくちゃ険しく果てしない道程ですなぁ…(溜息)

 

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