2003年12月20日午前7時50分,母は5年以上に渡る寝た切りの闘病生活を終えました。家族に別れを告げるという形で…。満年齢78歳でした。
先週あたりから肺炎を起こしていたらしく,前日には一度呼吸が止まることもあり,療養していた兄宅から地元の総合病院に入院。昨年も2度ほど肺炎で入院したことがあり,「大丈夫と思うけどな。今夜は様子を見ておく」と兄に促された当方は自宅に戻り,普段と同じように週末の夜を送りました。が,未明に母の様態は悪化し,結局,そのまま息を引き取りました。
17年前,父が逝った時には前の夜に雷が鳴り強い雨が降るという荒れた天気でした。母が逝ったこの日は,中国・四国地方はこの冬で一番の冷え込みに包まれ,時折雪も舞っていました。島で一番高い山の頂近辺は,雪化粧を纏ったそうです。静かではあったものの,身にしみて寒さを感じました。
遅かれ早かれいずれ必ず“この日”はやって来るとかなり以前から覚悟はできていましたから,看取った時も病院から兄宅に母を帰す時も涙は出ませんでした。泣きたくないと思ったわけではないはずですが…。それでも出棺の間際,闘病中と変わらずまるで眠ったような表情で棺に収まった母の小さな亡骸に花を手向ける時,胸にこみ上げてくるものがありました。これを最後に二度とこの姿に会うことはないとなると,やはり…。
母は,寝た切りになる数年前,ちょうど当方が今までの半生の中でどん底に陥った辺りからアルツハイマー症が発症しました。酷い物忘れや身辺物の盗難懐疑,徘徊癖が目に付くようになりました。
更に,それ以前に骨粗鬆症を緩和するために投与されたカルシウム剤の副作用によって脳血栓ができ(火葬後,お骨に残っていた跡で判明),脳血管障害型痴呆症も併発していました。いわば“ダブル痴呆症”が母を襲っていたわけです。
この頃の私は,母が痴呆症になってしまったことに気付かず,また自分自身の余裕がまるっきりなかったこともあり,何かにつけて激しい口調で母を叱責したり罵ったりしていました。全く罰当たりな馬鹿息子でした。
5年前に転んで腰の骨を折ってからの母は,自力歩行はもとより体を起こすことさえままならなくなり,ほぼ寝た切りの生活を余儀なくされるようになりました。体を動かせなくなると,痴呆症は加速的に進行します。そのうち,普通に言葉で会話することもできなくなりました。
母の面倒は兄夫婦がその一切合切を引き受けていました。当方はと言えば6年前から3年間,仕事の関係上普段は自宅を離れ隣の島で寮生活を過ごす毎日でした。私は週末に兄宅に寄り「元気か?」とか「今日は顔色いいね」と老いた母の顔を見る程度で,3年前からまた自宅通勤できるようになっても,そのパターンが続きました。
母が最期を迎えるまで介護らしいこともろくにできずにいた,そして通夜や葬儀に臨んでも何をしていいやら分からずウロウロしていた,始めから終わりまで親不孝な末っ子でした。
おふくろ様
年若い者でさえ弱り切るであろう5年もの長い間の辛い闘いから,こんな形ですが漸く解き放たれましたね。本当に,本当にお疲れ様でした。
最期の時には22キロにまで小さくなってしまったその体で,まだ若いうちから決して丈夫ではなかったその身で,逃れ得ないものとずっと長い間闘ってきたこと。それだけでも,おふくろ様のことを,自分から一番近い身内ながら「凄いよ…とても真似できないよ」と,思わずにはいられません。
それだけではありません。あなたは,赤ん坊のように人として“真っ白”になりながら,とても大きな・とても大切なものを家族の心に残して逝きました。そう思えるのです。
弱った体の力では,流動食でさえ口からではなかなか飲み込めずにいましたね。同じ歳くらいのお年寄りの2倍も3倍も時間が掛かっていましたね。まるで飲み込むのを拒絶するかのように口の中に含んだままになっていたことも,珍しくありませんでしたね…。
おふくろ様のそんな様子に,慣れきらないうちはしばしば腹を立てていた兄や義姉さんでした。それは,そうでしょう。「こっちは,手や足となっているつもりなのに,どうしてちゃんと食べてくれないのか。」と考えるのは,普通に体を動かせる者の身からすれば当然ですから…。そんな時,立ち寄った兄の家の中は,どこかしら堅い空気が流れているように感じました。
でも,違ってたんですよね。おふくろ様なりのペースというものは。あなたはあなたなりに精一杯のことをしようとしていたけれど,体の力はもとより,心の方も赤ん坊のように“何も書かれていない”状態に逆戻りしていたんですよね。それも毎日少しずつ,でも確実に…。そのことが,兄や義姉さんにも解り,私にも納得できるようになると,おふくろ様を取り巻いていた空気が一変して和らいだものに変わったような気がしてなりませんでした。
口の悪さは私以上だけど,反面,私の何倍も情が深い兄。そして,何事にも前向きで明るく取り組む義姉さん。二人が柔らかく話しかけるようになると,おふくろ様は,短い言葉だけだけど,きちんと返事を返すようになりましたね。症状が進行して,言葉を出すことができなくなっても微笑みで応えるという風に,まるで,話しかける者の“心の鏡”のように,家族に接してくれましたね。
そんなおふくろ様は,“枯れて”いきながら同時に家族の心の柱になっていたように思えるのです。兄夫婦にも私にも,就職や進学で島の外に出ていた二人の姪にも。
二人の姪は,我が家に帰って来ている間,できるだけおふくろ様の傍にいましたね。今の暮らしのことを聞いてくれたり小遣いをもらえたりするわけなどないのに,義姉さんと同じように,明るい笑顔であなたの身の回りをみていました。身内ながら,立派な娘に成長したものだと感心するほどでした。二人とも子どもの頃,働きに出ていた義姉さんの代わりにおふくろ様が面倒みていたとは言え,それだけでこうまでできるようになるとは思えません。
生前の元気な頃から,おふくろ様は自分を前に出すということが全くないと言っても過言ではありませんでしたね。相手が強く出れば引き,相手が引いてしまった時には無理強いせずに傍らに一緒にいてあげるような,ささやかだけど温もりを絶やしたことのない,おふくろ様でしたね。
そして,思い起こしてみれば,親父殿が最期を迎えるまでの闘病を支えられた時,更に遡って,姑であった祖母様の末期までの世話をされていた時も,おふくろ様のひ弱な体にはさぞかし過酷であったろうにも関わらず,愚痴一つこぼさず,ただ快気を願って懸命に看病と介護を続けられましたね。
そんなおふくろ様を姑として義姉さんが兄の嫁になったからこそ,義姉さんも二人の姪たちも,おふくろ様が世話を受ける番が巡ってきた時,あなたに誠心誠意のことができたのでしょう。
“情けは人のためならず”とは,本当にうまく言ったものです。
今一度,改めて自分の身を振り返ってみて,おふくろ様に孝行らしいことが少しもできていないことが悔やまれてなりません。
あなたの息子の一人でありながら,兄のように息子らしくできなかったこと,どうかお許しください。そして,おふくろ様のように愚痴をこぼさないばかりか,逆に愚痴ってばかりで日々を過ごしていること,これからも心の中からお叱りください。
…ただ愚痴はこぼしても,人そのものを恨むことなく生きていること,これはおふくろ様から私への“心の形見”として,これからも守って参ります。おふくろ様が,その最期まで身をもって教えてくれた“優しさや温もり”のひとつの形を,心に曇りなく見続けられるように。
文字通り,痩せても枯れても,おふくろ様は最期の最後まで親として私に人としての大切なものを教えてくださいました。
これからは,どうか安らかに。そして,さらに願わくば,彼岸の地でも生前と変わらず親父殿と仲睦まじくあられますように…。
2003年12月24日
愚息 拝