諸々,徒然… 番外編 悩んでたって腹は減る ここに書くことは,どちらかというと現状よりもこの春までの作品創作や文章表現のことになる。 今以降の自分に向けた覚え書きのようなつもりなので,最近の日記文同様の書き方でいく。 作品は作り手以外の人の目に触れた時から,程度の違いこそあれ作った者の思惑からは独立した側面を持つようになる 既に周知のことだし,自分だけが知らなかったわけじゃない。…ただ,どこかに忘れていたのだろう。 今になり冷静にAMIBを読み直した時など「自分を知らない人なら(さらに後書きを読み飛ばしたら),エロパロと解釈しても仕方ないかもなぁ…」などと思ったりもする(^^;) 勿論,描いていた時の想いに偽りはなく,今でもキャラや作品への愛情は決して覆ってはいないが。 反応が作り手の思いから180度違ってたり,それに近いくらいに受け取られたりすることも…。 そんな時は,表現にどこか不足しているところがあるか,読む側の人との間に在る“想いのベクトル”に方向の隔たりがあるから。結局は相対的な問題なのだが。 “共通語”を持つことが出来たとしても,互いの間に量的・質的な違いがないとは限らない。その違いから解釈のズレが生まれることもある。ただ,そのズレもマイナスに動くばかりとは限らない。プラスへの思いも寄らない広がりをもたらすこともある。希有なことだが至福を感じる時でもある。 届けようと努力しているつもりでも,相手の心を満たすレベルに至っていなければ響くことはない。 逆に,しゃかりきに力まなくても意外な程の手応えを得ることもある。相手から“近付いて”くれた時がそうだ。勿論,近付いてもらえるだけのことを常に積み重ねることが前提。 自分が今に至るまでを振り返ると,描いたり書いたりという以外に別のやり方で思いを載せてきた時もあった。それは歌であったり詩であったり,映像を手段にしたことも。 その時と比べて決定的な違いが存在する。相手がごく身近にいる人ではないこと。顔の見えない相手がいるということ。そして,時代や環境など全ての背景に至ると,自分を含めて一人一人が違っている中で生きてきたこと。重なり合う部分・共通項がある方が希なのだ。 …伝わらないところや行き違うものがあっても,そりゃ無理はないわな(苦笑) 文字だけによる表現は,細心の注意を払ったとしても送り手の想いを越えて“増幅作用”を生むことが多い。喜楽のそれは相手をより明るく導き,怒哀の場合は一層印象を重くさせがちになる。 顔を合わせ,声を交わして話をすれば「あぁ,そうなんだ♪」と笑えることが,文字だけの遣り取りだと思い裏腹な反応に相手が至ってしまうことすらある…。そこには,一種の怖さを含んでいる。 送り手の意識や印象の記号としての文章や作品…いわば“名代”のようなものだ。 それだけに,受け手との相性とか受け手の性格というのも極めて重要だと思う。また,その時の受け手の心理状態も決して無視できない。 誠実な人や共感的な人なら好意的解釈も望めるだろうが,他人の心持ちに気を遣ることが苦手な人や思いもつかない人に対して絵や文章の奥に秘めた想いを感じ取ってくれと願うのは,ある意味で高飛車な態度だ。そもそも,自分だって読み手の側に回ったとき,送り手の意志が汲み取れるかどうか甚だ怪しいものだ。 また,“熱さ”や”重さ”が先走ってばかりだと敬遠されても当たり前。人の遣り取りは,そのやり方が何にしてもメリハリがある方が惹き付けられるもの。一本調子なら,まだ軽い方が好まれるのが世の習いというものだろう。思い起こせば,数年前にも“苦さ”を味わっていた…。 表すこと・伝えること…意識せずとも長けている人もいる。苦手を克服すべく努力を積んでも,越えられない限界に行き当たる場合もある。考えれば考えるほど感じる壁が増える。 …「感じる」。そうだな,自分を含めて男は頭で考えることが先行しがちだから,素直に感性で受け止めることにどこかで不安を覚えるのかもしれない。それが,また次の壁を作るのだろう。 かといって己の至らない部分を嘆いてばかりいる必要はないだろう。卑屈になることもないはずだ。勿論,相手の歩み寄りに頼ってばかりいて努力を忘れたり怠ったりするようでもいけない。 続けていれば時として何かの形で自分に返ってくるものもある(かもしれない)ということで,要は自然体で前に進むのが大事だということに行き着くだろう。とは言え,それが一番難しい…(^_^;)。 何だかんだと自分のすることに悩むのが尽きないというか,周期的と言っていいくらい繰り返す。 しかし,前に進む途中で悩みや迷いが生まれるのは,幾つ歳を重ねてのことだろうが(程度の差こそあれ),間違っていたりいけなかったりするわけではないと思う。悩むことや迷うこと自体に悩んだり苦しんだりして,その挙げ句に身動き取れなくなるのは,いただけないことだろうけれど。 突き詰めれば,確固とした自信に繋がるものを未だ自分の中に持てていないことの裏返しなのだろうけれど,絶対的で普遍的な自信を持てる人なんて,この世にいるんだろうか? なんだか道楽に限らず生きること全般に及ぶような話になってしまったような気もする。 ゲームのようなリセットは絶対効かない不可逆な一生だからこそ,信念とまではいかなくても自分の流儀(「うんうん唸りながら進む」)が許されるところでは,これからもそうやっていくつもりだ。 |
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